読書感想文
「博士の愛した数式」(小川洋子)
※2069文字※
「君の誕生日は何月何日かね」
その日は夕食が済んでも博士はすぐ書斎へは行かず、後片付けをする私に気を遣って何か話題を探している様子だった。
この部分を読んだ時に私の頭の中に真っ先に浮かんだのは、いつも寡黙で仕事人間だった私の父だ。
私が子供のころ、父は休みの日も仕事関係の人とゴルフに出かけ、あまり家にいなかった。
そんなふうだったので、家では影が薄い存在だったが、その反面、仕事では家庭もかえりみずに働く忠実さが買われ、どんどん出世していたようだ。
私が年頃になった頃には、娘と父の間には大きな溝ができていた。
父はしばらく見ないうちにすいぶんと大人っぽくなった娘とどう対面していいのか分からない様子で、お互い距離を取るようになった。
それでも一応娘のことは気になるのか、父は時折唐突に、奇妙な質問を投げつけてくることがあった。
私に言いたいことがあるのになぜか直接は言わず、遠回りして母に伝言を言付けたこともあった。
私は典型的な『扱いづらい子供』だった。
あの頃私は父親の気持ちなんて考えたこともなかった。
今になって振り返れば、思春期の子供とその親にはよくある話。
父は、突然父親を避け反抗的な態度を取るようになった娘への対応に困っていたのだろう。
この小説を読んでいて、あの頃のちょっと他人行儀な父を思い出した。
その頃の父の姿が、若いころにあった交通事故の後遺症のせいで記憶が80分しかもたない博士の不器用なしゃべり方と重なったのだ。
そもそも、この本を読み始めたきっかけは、単行本の裏表紙に書かれていたあらすじになんとなく惹かれたからだった。
本屋大賞を取ったぐらいのベストセラーなのでタイトルぐらいは知っていたが、小説の内容はそれまでまったく知らなかった。
物語の主人公は、記憶が80分しかもたない元大学の数学研究所勤務の通称・博士と、その博士の住む離れに新しくやってきた家政婦の私、そして彼女の10歳の息子。
この本をレジへと運んだのは、この奇妙な組み合わせが新鮮で、彼らがどんなふうに交流するのか知りたくなったからだった。
ここでもう少し私自身の話をしてもいいだろうか。
私は大学進学を機に上京し、そのまま就職した。
実家は新幹線に乗れば日帰りも可能な距離だったが、社会人になって以降すっかり疎遠になり、お盆や正月休みでも帰らない年もあった。
両親の暮らす家を出て早十数年、たまには実家にも顔を出しておこうかなと思った矢先、
本屋で出会ったのがこの本だった。
通勤電車を待つ間、私はこの本を読み始めた。
物語の冒頭の博士と新米家政婦のぎこちないやりとりは、思春期だった私と父のやりとりを彷彿とさせ、読んでいてなんとも言えない気分になった。
しかし、ほどなくしてこの不思議なコンビが織りなす日々は、血の通ったあたたかみのあるものに変わってゆき、読者である私をほっとさせた。
傍から見るとこっけいで、不器用なやり方でありながらも友好を深めていく博士と家政婦親子。(ちなみにこの小説に家政婦の夫は一度も登場しない。シングルマザーなのだ。)
彼らの交流は、心が通っていれば、不器用であっても関係ないのだと私に教えてくれた。
そして最後に待つ、十数年後の印象深いエピソード。
大人へと成長した家政婦の息子の決めた進路が明かす、三人の強い絆。
たとえ一緒に過ごせた時間が限られていたとしても、博士の存在は家政婦とその息子の人生に大きな影響を与えていた、そのことを証明する、心にじんわりとくる結末だ。
話は戻るが、うちの父は今でも変わらず無口。
たまに実家に帰っても、私と話すのは母ばかり。
父はといえば、部屋の隅で新聞を読んだりして、まるで私のことには関心がない様子。
でも、意外とそうでもないらしい。
母いわく、「あんたのことを一番心配しているのはお父さん。」
私にはそんなふうには全く見えず、むしろ必要最小限しか話さないと固く心に決めているみたいに見える。
年を重ねてさらに頑固に、そしてさらに無口になっているフシすらある。
だが最近では、私も大人になったからなのか、白髪が増えてきた父の後姿がいとおしく感じられる瞬間があったりする。
父ももう定年間近。
もう若くはないのだし、私と父が一緒に肩を並べていられる日が永遠ではないことは、私だってちゃんと気がついている。
同年代の友人の中にも親を病気などでなくす人も出てきた。
30代後半とはそういう世代だ。
普通なら、いつかは先立たれてしまう宿命。
だからたまにはお風呂上りに一緒にグラスを重ねて、これまでできなかったような無駄口をたたきあい、まるでついでのように深い話もしてみたい。
アルコールは口を滑らかにする媚薬。
たとえ話上手でなくても、話題が仕事のことばっかりでも、あなたはやっぱり私のお父さん。
思春期で生意気盛りだった娘をいったいどんな気持ちで眺めていたのか、正直なところを聞いてみたい。
友達とでかけてしまった母抜きで、今宵は娘と父の秘密の酒盛り。
酒の肴は昔の思い出話。
なんだかくすぐったいような、照れくさいような。
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