読書感想文
「国盗り物語」(司馬遼太郎)
※1315文字※
現在、NHK大河テレビで「真田丸」を放送していますが、豊臣秀吉や徳川家康も出ていますが、残念ながら織田信長は既に、明智光秀によって夜襲をかけられ、無残な最期を遂げています。
ところで、
「なかぬなら ころしてしまえ ほととぎす」 織田信長
「なかぬなら なかせてみせよう ほととぎす」 豊臣秀吉
「なかぬなら なくまでまとう ほととぎす」 徳川家康
これは、戦国時代に三英傑といわれた武将の性格を表現した歌句(狂歌)で、皆さんもよくご存知だと思います。
実は、司馬遼太郎の「国盗り物語」は、この織田信長の物語なのです。
幼少の頃は奇抜な服装ととんでもない行動で世間を騒がせ、人々は彼のことを「尾張のおおうつけ」として見ていたのです。
しかし、一方の見方は彼の行動や奇抜なスタイルは世を欺くもので、実は子供なりに遊びを伴いながら世間を見聞していたとも言われているのです。
一番痛快だったのは、稲葉城城主の斉藤道三の娘・濃姫との婚儀の以前に信長が、道三と密かにあって見ると、やはり評判通りの「うつけ者」である事を知る事になります。
しかし、道三と信長が正式に対面時には、道三は自分の前に現れた織田信長の姿を見て目を疑うのです。
先刻とは異なり立派な正装束で現れたのであり、道三は意表を突かれた形で会見している間に信長の本当の正体を見抜いたのです。
勿論、これを機会に濃姫との婚儀が無事に済むことになるのですが。
この様な信長の日本を統一してゆく過程の独自性と政略とを、二人の秀吉と家康の決定的に異なるところは、信長にしか成しえなかった革命的な事柄があったのです。
後の秀吉、家康の二人は信長が引いた路線の上を走りながら、周辺諸国を開発したに過ぎないのです。
そして、信長が決定的に嫌ったのが古い因習や世間の噂、善悪や方針を自ら判断、事の事実を自ら確かめる、明確な将来ビジョン、形式的な行儀、其れの己に対する絶対的な自信などがあげられます。
更に、痛快だったのが信長が、比叡山を焼き滅ぼします。
有名な比叡山焼き討ち事件です。
比叡山は元より仏教信仰の聖地とされていたが、実際は堂塔も坊舎も荒れ果て、修行もせずに肉を喰らい、女を抱くなどその山門僧侶の腐敗堕落ぶりは明らかであったのです。
それでも比叡山そのものは多くの人々にとっては、神聖不可侵の地として崇められていたのである。
これは、信長自信もこれらの僧坊は偽善の塊りであることを喝破していたのです。
そして、信長の政争にしても中立どころか明らかに織田に敵対していたのです。
宗教嫌いだとかそういう信長の個人的な思考の問題ではなく、寺の権威や坊主の生意気さが大嫌いであり、更に、これらの輩が武器を持って信長政治に反駁したからなのです。
信長は、天正10年6月2日(1582年)京都・本能寺にて明智光秀によって打たれ自刃し、其の後、光秀は秀吉によって殺されます。
ここで司馬遼太郎の「国盗り物語」には登場はしませんが、面白い逸話、伝説があるのです。
光秀はこの時逃亡し、高僧・天海になり家康の側近として東照宮造営に尽力した、という噂があるのです・・?。
東照宮を訪ねると其の不思議さと不可解さが伝わってくるのです。
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