「立花隆の書棚」読書感想文の書き方の例文2000字

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「立花隆の書棚」を読んでの感想

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「立花隆の書棚」はそのタイトルが示すように、ジャーナリストとして
多くの著作を持つ立花氏の書棚を一段ずつ紹介していく一冊です。
立花氏といえば、自民党・田中角栄元首相についての著作や、
宇宙、臨死体験など、幅広いテーマで執筆してきたことで知られています。
その蔵書数も、一般人の想像を超えたものです。通称「猫ビル」と
呼ばれる建物全体に、猫の絵が描かれた自宅兼書庫には、
10万冊をくだらないであろう、蔵書が収められています。
まさに私設図書館といったところではないでしょうか。
「立花隆の書棚」の見どころとなっているのは、立花氏の該博な蔵書や
知識に触れられることだけではなく、写真家の薈田純一氏の手による
蔵書の精密撮影の画像なのです。
個人の蔵書の書棚を一段ずつパノラマ写真のように撮影したという、
あまり類をみない一冊になっているのです。
蔵書はその持ち主の人となりをあらわすといわれますが、
この本を読み返すと、まさにその言葉のもつ意味が実感されるようです。

「立花隆の書棚」のボリュームは、600ページ以上にもなり、読み通す
のにもなかなか骨が折れるかもしれません。
蔵書のジャンルも科学、芸術、宗教、言語学、性風俗と多岐にわたっており、
一読すると立花氏の関心分野の幅広さに、あらためて気づかされるのです。
それぞれのブックガイドとしても読むのも面白いのではないでしょうか。

立花氏の出世作となったは月刊誌「文藝春秋」に掲載された田中角栄研究です。
もともとは文藝春秋社につとめる編集部員でした。
しかしながら、ジャーナリストを志し、退社。その後のジャーナリストとしての
活動は目覚しく、農協、共産党の研究などの著書をものしてきました。
一方で臨死体験など、これまでの科学が対象としてこなかった分野の著作も、
積極的に執筆してきたことでも知られています。
立花氏の執筆スタイルは取材だけではありません。
立花氏執筆に入る前に、膨大な資料やデータを徹底して読み込みます。
本書で紹介されている蔵書は、その長年の仕事の産物ともいえそうです。

通称「ネコビル」の蔵書は、小中高校の図書室などの規模をゆうに超えている
のではないでしょうか。
その蔵書の管理も、やはり簡単ではないようです。
都内にあるため、建設費、土地代などもけして安くはないでしょう。
維持費だけでも相当な額になっているのではないでしょうか。
そして、意外と侮れないのが、紙の重量のようです。
建物が相当に丈夫でないと、本の重さによって床が抜けてしまう
恐れがあります。
また本書でも紹介されているように、地下室に水がたまるトラブルも
あったようです。
日本を代表するジャーナリストといえども、その膨大な蔵書の管理には、
相当の苦労と努力を必要としてきたようです。
立花氏には、その読書歴を書いた「僕はこんな本を読んできた」
「僕の血となり骨となった500冊」などの本があります。
取材の前段階として、圧倒的な蔵書を読み進めていくために、
読書量もそれぞれの分野の研究者にひけをとらないほどなのです。

実際に、立花氏はジャーナリストとして活動するだけではなく、
東大や立教大で、学生を指導したこともあります。ジャーナリストと学者は、
調べたことを論文にするという点では似ています。
ただ、学者はおもに専門家に向けて論文を書くのに対して、
ジャーナリストは一般向けに専門分野をかみくだいて伝える必要があります。
立花氏は、蔵書によって得た膨大な知識を、かみくだく力が人並みはずれている
のでしょう。

たとえば原発分野の蔵書について触れた箇所でも、その知識と咀嚼力に
あらためて驚かされます。
立花氏は福島原発事故と、事故の影響による反原発運動に触れつつ、
海外で開発が進む「小型原発」などの最新技術も紹介しています。
またノーベル賞受賞で話題となった、岐阜県飛騨市神岡町のスーパー
カミオカンデで、実験中の中性子を使用済み核燃料にぶつけることで、
違う物質に変成させることも可能だと指摘しています。
つまり、立花氏が指摘するように、こうした技術を活用すれば、
核廃棄物の保管期間を短縮できる可能性があるのです。
福島事故以降、反原発運動が活発に繰り広げられてきましたが、
立花氏は原発が制御可能となる可能性に言及しているのです。
膨大な蔵書から得られた立花氏の知識は、感情論ではなく理性的な
議論につながっているようです。

最後に立花氏も懸念するのは、インターネットの発達によって、
日本人の文章を読み解く力や書く力は衰える不安です。
もともと、日本人は輸入品である漢文を中国人と同じように
読んできた歴史があります。
ところが、読み下し文の発達によって、漢文が日本語の読み方と
同じになってしまったといいます。
そして現代では、漢文に学校教育ですら扱われません。
知りたいことがあっても、すぐにインターネットで調べられます。
こうした技術の発達によって、検索以上の知識を求める知識欲が
衰えてしまうかもしれません。
立花氏の膨大な蔵書は、そうした懸念に警鐘を鳴らしているようにも思えます。