「関ヶ原」(新潮社・上下巻)読書感想文の書き方の例文1200字

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「関ヶ原」(新潮社・上下巻)」(司馬遼太郎)を読んでの感想

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司馬遼太郎は多くの歴史小説を書き残していますが、
其の可でも特徴的なのが戦国期と幕末、明治の維新
前後を描いて著書にしている例が多いように感じます。
そんな戦国期の中でも戦国時代の総集編、完結編と
言われれるのが「関ヶ原」ではないでしょうか。

尤も、此の後で大阪の冬の陣や夏の陣が始まりますが、
しかし、此の時代というのは既に天下は徳川政権に
移っていて幕府も江戸に有り、戦国期は既に割っていて、
時代は江戸時代に突入しているのです。

現に、江戸時代の期間の始まりは慶長8年で、
西暦では1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて
江戸幕府を樹立しています。
そして、大阪冬の陣はこの後の慶長19年(1614年)に
開始されていますから、時代年表を見てもわかりますね。

さて、私も歴史好きで特に日本の歴史が大好きなのですが、
実際の歴史と歴史小説というのは当然ながら異なります。 
歴史というのは実際に過去に現実的に発生した諸々の
出来事の積み重ねですが、では歴史小説というのはと
いいますと、此れは飽くまでも虚構であり、フィクションと
言えるのではないかと思っています。

実際の歴史においては不明なことが沢山あり、この場合は
ある種の専門家が推察を基に様々な説は出て来るときも
ありますが、基本的には推察であり実際は不明なままなのです。
ところが歴史小説は、そうした歴史の謎を推量のもとに其の
虚構で埋めることに他ならないわけで、そこで創作され、
作られた物語というのが作家の歴史性や考察力のよって
魅力的に描かれているわけです。

ただ、司馬遼太郎氏のように歴史に精通した人たちは、
虚構やフィクションを上手に埋めていきますが、
登場する重要人物や時代的な背景、其れに年代などは大凡、
歴史的事実に基づいているものです。

従って、歴史書物や小説本を読むことによって、何がしかの
歴史の教訓や内容、其の時代の有り様や年代が自然と身に
ついてきて、勉強にもなるものなのです。

さて、足利幕府の室町時代の衰退に伴って、諸国の守護大名や
領国の支配者達が力をつけていくと、所謂、下克上(ゲコクジョウ)
といって、下の位の者が上の位の者を力で押しのける時代になります。

此の戦国時代の幕開けから活躍する代表的な人物こそ、織田信長であり、
豊臣秀吉であり、そして徳川家康などが出現することになります。
此等の個性豊かな戦国武将達が下克上で登場する物語が、歴史小説の
花形と言ってもよいでしょう。
其のような中で、戦国時代の最終段階を迎えたのが、豊臣秀吉亡き後の
徳川家康なのです。そして、此の時代に最後の下克上の決戦が行われる
のが、日本国内では最大の天下分け目といわれる「関が原の戦い」なのです。
司馬氏は此の時代の物語を、ただ単に「関ヶ原」と題して著述しているのです。

勿論、此の「関が原」は当人である石田三成側ではなく、徳川家康が主体
として描かれているのです。
信長、秀吉と同じように家康も戦国時代の三英傑であり、特に乱世の世に
完全に終止符を打ったことで高く評価されているのです。
ただ、関が原の合戦は、裏切りや寝返りの戦であり、戦う前から勝敗は
決していたとも思われるのです。

家康と秀吉の正室・北政所がよしみを通じていたこともあって、
その配下の加藤清正・福島正則・黒田長政等、所謂、戦上手な武将が
完全に東軍に付き、他にも豊臣恩顧の武将は篭城や開城して西軍には
直接には参加しない、そして、本番の戦では小早川秀秋が真っ先に寝返り、
他の武将も寝返っているのです。

実は、関ヶ原というのは東西決戦とはいうけれど、実は豊臣と徳川両家
の争いなのです。
然らば結果はそうであるが、此の「関が原」では、豊臣恩顧の武将たちが
何故、徳川側に就いたのか・・?、此等を判りやすく纏めているのが、
この「関ヶ原」の面白いところなのです。

何れにしても、西軍総帥である石田三成は秀吉の一介の側近であったにも
拘わらず、一時的にせよ此れだけの人身を集めた技量は人物として
評価に値するものであった。
小生は同時期に、童門冬二の「石田三成」を呼んだが、彼は三成サイドに
立った関が原(余り詳しくは無い)を描いていたのです。

関が原の合戦は、「天下分け目の戦い」というが、実はそうではなくて
東軍の大将・家康も、西軍の総帥・三成も豊臣家の御為と思い、
戦争を起しているのです。
戦は家康が勝利し、結果として豊臣家が衰亡する中、更に、大阪に陣が
起きて時代は徳川政権下、270年近い戦のない時代が造られていくのです。