読書感想文
「黒い雨」(井伏鱒二)
※2004文字※
戦争の悲惨さを訴えるフィクション作品は多い。この井伏鱒二「黒い雨」も、その一つだ。
この小説は、戦時中を描いたものではない。
舞台は、第二次世界大戦から数年後の広島だ。広島、第二次世界大戦。ここから連想されるのは「原爆」である。
つまりこの物語は、原爆によって被爆した「被爆者」をモデルにしている。
そして、これはほとんどノンフィクションと言っていい。
なぜなら、被爆者の実際の日記をもとに描かれたものだからだ。
正確には、被爆者故に縁談が破棄された女性の、叔父の日記(この叔父も被爆者であり、この小説においては主人公として設定されている)をもとにしている。
ここまで書いただけで私は、正直なところ気が重くなった。
切実な痛みと、行き場のない怒りとを感じないわけにはいかない。
それは私自身の感情であると同時に、縁談を破棄された女性と、その叔父の感情に対する共鳴でもある。
確かに被爆者は、放射線による後遺症を抱えている。
しかし彼らは、自ら進んで被爆者になったわけではない。
悪いのは原爆で、戦争で、国だ。
にもかかわらず、なんの関係もないごく普通の人々が、原爆の後遺症に苦しみ、差別を受けている。
その「後遺症に苦しむ」ということに関して、わたしはオウム真理教の地下鉄サリン事件を思わず想起した。
「自分は悪くない」という感覚(そしてそれは、百パーセント正しいと思う)は、その人をどれだけ苦しめるのだろうか。
それは当の本人にしか分からないことだし、全くの他人が分かるのだとすれば、それは分かった気になっているだけだと思う。
その点井伏鱒二は、あくまで第三者の立場を保ち、事実の描写に重きを置いて作品を執筆したように私には思われたので、ある種の誠実さを感じた。
限りなくノンフィクションに近い形をとったのも、その辺りが関係しているかもしれない。
「生の声」ほど、痛切なものはないからだ。
タイトルの「黒い雨」とは、原子爆弾によって汚れてしまった雨のことである。
つまり「実際に」雨の色が黒いわけである。
ほこりやすすやどろが付着しているから、そういう色になるのだが、もちろんそこには放射性物質も含まれている。
被爆者の女性、主人公の姪は、その「黒い雨」を浴びてしまうのである。
わたしはここまで、あくまで被爆者の立場から、差別の愚かさを書いてきた。
しかしここで、その被爆者を見る側、つまり実際に作中で、相手が被爆者かどうかに敏感になり、それと分かるとそれとなく忌避し、悪口を言っていたような人々の側に立って、この問題について考えてみたい。
極端に言えば「自分は被爆者と結婚できるか」ということである。
これは、私にはかなりの難問に思える。いや、他の人にとってもそうだろう。
愛する人が「被爆者」だったとしたら。
そもそも「被爆者」だと分かっていたら好きになっていたのだろうか。
結婚でなくてもいい。
「自分は被爆者と友だちになれるか」「自分は被爆者と普通に接することができるか」。
そう考えると、途端に自信がなくなる。
だからこそ主人公は姪が被爆者だということを他人に伝えるべきかどうか、悩むわけである。
どれだけ「差別しない」と口で言ってみたところで、そこにはどうしても偽善的なにおいが付きまとう。
叔父はその人間の心理を熟知していたのだ。
被爆者故に苦しんでいたからこそ、猶更。
この小説は、救いがないとまでは言わないにしても、ハッピーエンドでは決してない。
結局姪は原爆症という、原爆による病気を発症し、しかも症状は悪化していく。
そんな姪に対し、叔父はただ病気の回復を祈るしかない。
それはそれこそ、奇跡を望むのと同じようなものだ。
祈るしかないという無力さが、この物語の悲壮さをより一層際立たせる。それは同時に、戦争への怒りや反感をもかき立てる。
原爆は、私は人間の最大の罪の一つだと思う。
どうして罪のない人々が、人生を棒に振るような悲劇に見舞われなければならないのだろう。
そう思わずにはいられない。
私はもう一度、先程の難問について考えてみた。
被爆者と、他の人と同じように接することはできるのか。
もちろん、努力はする。ただ被爆者というだけで、差別はしたくない。
しかしそれでも、その差別心を完全に取り払うことはできないように思う。
「差別してはいけない」という思いは、むしろその人を傷つけはしないだろうか。
「差別しないようにしよう」という気づかいは、やはり、普通の接し方とは言えない。
しかし私にはもう、そのように意識することしかできないような気もする。
例えば私が親で、自分の子どもが被爆者と遊んでいたら、どう思うだろうか。
放射能に対する恐怖は無論ある。
笑顔で「気にせずに遊びなさい」と子どもを送り出すことはできるだろうか。
観念的な問題だ、という部分も多い。
放射能や被爆に対する知識量の少なさも関係しているだろう。
それでも今の私には、どうすべきか分からない。
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